雑に記す、故に雑記。故に侘助。←コピペ

 と書いても実際にコピペかどうかは読者には解らない。と不図思ったので、いつも途中から元々何を書きたかったか俺自身も解らなくなるこのブログではあるが、今回は更にひどく、冒頭から予定と違う事を書く事にする。
「この文章は嘘である。」
 はい、これはかなり有名な自己言及文です。他のセンテンスと比較しないと意味を成さないモンですな。
「この文章は正しい。」
 はい、こちらはちょっと進んだモンですが、まぁ論理をやってる人には有名ですな。一見上記と違い何も矛盾が無い様ですが、正しいかどうかの判断材料が無く、上記の文と同様意味があるとは言えません。
 で、今回はここから敷衍させて、1つ目は先ず"人間"に就いて考えましょう。
☆人間に於ける自己言及1
「俺が言っている事は嘘である。」
 紙に書いたテキストでは無く、人の言葉ではありますが、性質は同じ自己言及文です。「ブログに書かれているテキストじゃん。」とのツッコミはシュールレアリスム等の管轄になるのでやめておきましょう。
 まぁこれは「或るクレテ人が『全てのクレテ人は嘘つきである。』と言った。」と、こちらも有名な文ですが、古くから自己言及文の代表として存在しておりますね。基本的に嘘つきがいつも全て嘘をつく訳じゃないです。故に侘助
「よし、俺はこれから朝飯食わないぞー。」
「今日は雨が降りそうだから傘は持って行かない事にしよう。」
「一昨日大阪に行ったらロシア人がラーメン食ってたので・・・・・・。」
 こんな嘘つきがいたら相当頭が良いでしょうね。なので、全てとは言わずとも、或る程度の長さの文章や語る言葉から判別されるべきであると云うのが、この類の文、一般の人間の発する言葉の性質でありますが、ここで"人間"との言葉が出てきました。故に侘助、では無く、故にもう一度戻ります。
 先に書いた様に、
「俺が言っている事は嘘である。」
「俺が言っている事は本当である。」
 も、どちらも意味の無い言葉です。一般的に話を進めると、ここでもう一人の人物を登場させるのが筋ですので一応段階を踏みます。
A「Bの言う事は嘘である。」
B「Aの言う事は本当である。」
 これも有名なんで説明が面倒ですが、自己言及では無いモノの、真偽の判定が出来ない間接的な自己言及文です。
 扨て、ここから漸く本題。上記の事から外延、普遍化させる事が面白いだけなんだけど、自己言及自体の性質もしなければなので。取り敢えず小難しい部分は簡略化したが長くなってしまった。
 一般の人間は、他の人間から発せられた言葉を上記の様に論理学的処理をするだろうか、との部分から。取り敢えず哲学的に意味とか意義とか使うのはアレなんで、適宜解り易い言葉を使っていきます。
母親「ご飯が出来たわよー。」
子供「この言葉の真偽は判別しかねる。」
 などと言う事は無いでしょう。まぁ余程この母親が嘘ばっかついてる人間なら別ですが。それはそれで面白い親子関係だけど。余計な事を書いておくと、子供は"ご飯(料理)の匂いがするか否か"、"普段親が食事を用意してくれている時間帯か"、"抑も母親が帰宅していたかどうか"等の、直接的な対象である母親以外からの情報でも判別しようとしたりしなかったりしますが。
 併し、通常であれば、子供はこの言葉を疑う事は無く、情報収集を行う事も無いでしょう。何故でしょうね。それは多分子供が母親の言葉を"信じているから"だと思われます。論理的な話から、いきなり"信じる"との漠然とした話になっている様に見受けられますが、"信じる"と云うのも論理的帰結です。母親が子供に対し"真"の情報を多く与えた結果、子供の中(情報処理装置)で、母親から発せられる情報は信じるに値するとの情報処理が行われておる訳です。既に長い事子供をやっておれば、処理をする迄も無く、「母親は正しい事を言う」とのバイアスが形成される訳です。ここでは敢えてイッパン的にはマイナスのイメージを持つ"バイアス"との言葉を使っておりますが、その理由は後でなんか解るか解らないかです。
 ともあれ、対象である母親からの情報の(真偽の)蓄積が、子供の判断材料としての情報、知識、記憶、これらは全て同じ意味ですが、になります。
 もう一つ、間接的な自己言及文の場所に入れるべきだったかどうか、まぁブログなんでどうでも良いですが、他者を介しての真偽の判断の話を付け加えておきます。
A「俺は嘘はつかないよ。」
B「Aの言っている事は本当だよ。」
 この場合は特に矛盾は無いでしょう。論理的意味の存在とは別として、一般的に生活している場合は第三者、この場合Bが信用に足る人間である場合に於て、Aの言葉も同様に真であると間接的に判断する事になります。併し一般的に、AとBに利害関係が存在する場合には、Bの言葉もAの言葉も真偽を判定する材料にならないと云うのは、被疑者の親族の証言は証拠とならない事から解る事でしょう。友達とかもそうなのかな? 法律よく知らんのですみません。
 もう一度、ここで個人の発する言葉に戻ります。と云うか当初の話から別の話に発展する事になってしまいそうになったので無理矢理戻しますが。


「俺は天才である。」
「私かわいいでしょ。」
 この様な言葉を発した場合、大抵相手から「自分で言うモンじゃねーだろ。」と言われます。どちらかと云うと蔑まれる感が強く、慢心してると思われます。
「俺はバカなんだよな。」
「私容姿に自信無くて。」
 と、逆に自己否定的な言葉を発した場合は、「それほどじゃないよ。」と、慰められる方が多いでしょう。「普通だよ。」とか、何が"普通"かワケのワカラン定型句を返すバカもおるでしょうが。因みに余りにもネガティヴだとうぜーってなりますけども。

 扨て、上の自己肯定に対しては嫉妬などクソみたいな感情的なモノもあるでしょうが、それとは別に、冒頭に書いた自己言及の人間ヴァージョン、自身に関して発する言葉の"自己言及の意味の無さ"との点から考えると、一概に非難する人間を非難する事は出来ないですね。
 先に書いた親子の例の様に、例えば特定の──この場合肯定的な──情報を発した発信者のその他の情報を、受信者が蓄えておれば、「誰がそう言ってるの?」「証拠はどこにあるの?」等との外部情報を必要せずに、真偽、そこまで堅苦しくなくとも、その情報の程度を判断し、マイナスの感情を持たずに直裁に応える事が出来る事と思います。例えば仲の良い友達同士であれば、
A「俺は天才である。」
B「それほどじゃないよ。」
との(正常で健康的な)会話も成立するでしょう。
 特に関係が深くない人間との対話に於ても、特に重要性の無い事、例えば
「今日電車空いてて座れたよ。」
などと誰かが言ったとして、その真偽を一々確認する事は無いでしょうね。猜疑心の塊かよ、を通り越してビョーキです。本当はこの"情報の重要性"に関しても話を拡げたいところですが長くなるので。


 扨て、この話がどこに繋がるかと云えば、特にここ10数年前から流行っている日本人のダブル・スタンダードです。
 ヤスい心理学者が「自分で自分を認めてあげなさい。」などと言い、消費者も喜んで受け入れる一方、それを言葉に出す事は、伝統的に出来ないシステムになっております。結果、他人からの評価を受けようと必死にならざるを得ません。勿論前述した様に第三者からの情報を必要とするのは当然なのですが、当然と言い切れないとの部分も書いたつもりです。まぁこれは昔からそうですが、今は本を開いて引用するのは面倒なのでやめておきます。
 勿論それだけでは無く、自分を肯定する人間に対し、感情から否定をする人間と云うのは、実は自分自身を肯定出来ない人間、TAで言うところの"I'm not OK - You're not OK"的なタイプが多く、自分を自分の主観で認められない為に他人(エライ人)の言葉で自分を励まし、他人に対しては、自信を持った(様に感じる)人間に否定的な感情を持つとの不健全な人間関係が出来ており、更に日本人特有の社交辞令、外面文化が加わり、エライコッチャになってしまう訳です。
 TAの話を少しすると、日本人はアダルト(論理的な部分)が低く、逆に高いと計算高いと思われる傾向にあります。昔は"人情"で結び付いていた為、実際はどうか知りませんが、[感]情の部分が重要視されていたからだと思われますが、その感情のウェイトが高い儘、方向がマイナスへ向かい、論理的な判断が出来ない(苦手である)との事が加わり、少なくとも良いとは言えない状態にあるのが現在の日本でしょう。一見論理で話している様でも、スタートは感情であり、論理が後付けである様(さま)は実に多く見受けられます。人格、自分自身に就いては、全てに於てそうですが、自己批判が出来ない、自分をよく知ろうとしない人間よりも、まだ「自分はダメだ。」と思ってる人間の方がマシかも知れません。
 論理で判断できないから、多くの人間の言葉で判断する。多くの人間が好きな人間、即ち人気のある人間の言葉を受け入れる。正にTV(人気)文化の悪影響が顕現しておりますが、今はもう高齢の方にまでTV文化が浸透しているので、バカになった事にすら気付いていない状態と言えるでしょう。自分に取って都合の良い事に就いては他の情報を必要とせず、都合の悪い事は疑う、との単純な論理回路の持ち主が非常に多いですね。

「俺が言っている事は本当である。」この自己言及文に意味を持たされるのは、多数派に依ってであると言うのが現在の日本です。


 朝に何書いてんだか。今日は20日に届いた西ちゃんのDVDの事とか"ゆるふわ美人のアラサー"ぱるにゃす先生ネタを書こうと思ってたんだよな。まぁいいや。てか結構ハショってるだろうけどまぁいいかブログだし。と言うかまぁいつもマジメな事を書いていると愚痴ばっかみたいだが、その全てに(自分の)回答はありますけども。書いてある事の逆をやれば良いだけなんだよね。
 感情よりも論理的な思考を出来るようにする。他人へのマイナスな感情は、近い人間なら直接言う、関係無い人間なら忘れる。自分がダメだと思うのは構わないが、何がダメで、どうすれば良いかを考える。ほら、書くと当たり前過ぎてアホみたい。
 後、詳細は書かんけど、感情も論理も、脳の働きに於て完全に区別出来ない、子供の頃から作られた思考の働きなんですよね。勿論ホルモンで感情がダーってなるけど、そのダーってなり易い傾向も含め。故に結局いつもの幼少時の人格形成に与える教育の重要性って話ですわな。中・高でも大事だから、"ぼっち"が流行ってるとは云え、間違っても一人で良いんだとか思ってその儘だったら・・・・・・


'Bitter Sweet Symphony ' - The Verve [Official V]