作者をせかす6人の主人公たち

 先日のブログ俺的声優情報その1 折笠富美子姫で書いた後に、今頃オフィシャルサイトがあるのを発見し先ほど覗いた。そこであらすじを見たのだが、俺が先のブログに書いた「ピランデッロの"作者を探す六人の登場人物"のパスティーシュってかパロディかね?」の以前に、既に「ピランデッロ的な展開で」と謳われていたのである。作者をせかす6人の主人公たちオフィシャル 因みに"ムービー"の項では山寺さんがホストで出演者達が出ており、姫も第4回に"タオルーズ"として出ている。

 扨て、その"せかす"であるが、これは"探す"とは違い、作者自体が登場するので"探す"の序文で書いていたピランデッロの苦悩を舞台化した方に近いのだろう。

−わたしの目の前には、黒の上衣を着、明るい色のズボンをはき、苦悩から眉をしかめ、目をけわしくした、五十がらみの「男」と、黒い喪服に身をつつみ、両わきに、四歳ぐらいの「女の子」と、十歳を少々越えたぐらいの「男の子」を連れた「女」と、そして(中略)「若い娘」とが、いたのである。要するにみなさんが、今、この喜劇の初めに、舞台上で、ごらんになるような、六人の登場人物である。−

 
 彼の頭の中に、上記の様に忽然と現れたキャラクター、通常のモノカキであれば創造するモノであり、また思い浮かぶと云う事はあるが、彼の場合はその様な言葉では表せない程にキャラクター達が"リアル"な存在であった。

−ただ言えることは、まったくかれらを探し求めたわけではないのに、今、舞台上で見られるような六人の登場人物が、わたしの目の前に生きて出現し、手でさわればさわられ、そしてその息さえも聞こえるほどのまぢかの位置に、いたということである。−


 このキャラクター達は、舞台の中で演じられる様に、いや敢えて舞台で生きる姿の儘の、と書いた方が良いか、悲劇的な経験、彼らに取っては"常に繰り返される現実"、を持っている。それ故ピランデッロは彼らを小説上で生かす事ができなかった。

−わたしは自問した――。「すでに自分は、何百篇という短篇小説で、自分の読者を、大いに悲しませた、それだのに、この上さらに、この六人の登場人物の悲惨な事実を小説にして、かれらを悲しませなければならない理由が、あるのだろうか?」−


 この様な発言は以前、俺の同時代、同時代って書いたら結構年寄りになっちゃうなまぁいいや、の偉大なる、"ホラー作家"に留まらない小説家であるスティーヴン・キングもしている。

−殺人は、ポルノグラフィのなかでも最低最悪のものである(中略)この種の忌まわしいご都合主義でしかない死を、自分でも小説のなかで書いていたかもしれないと、およそそう思うだけで、いまのわたしは胸がわるくなる思いだ。−


 共に、後者はエンターテインメント色が強い、としても、時代は変われど、多くの作品を生み出してきた作家、職業意識の強い、だからこそ言える事である。

 そして、その様な"良心"を持っていたピランデッロは、それでも尚、いや、作者の考えに構わず、生きようとする登場人物達の執拗な説得を受ける。作者の考えに構わずと云うのは次の言に依る。

−しかし、生命は、ひとりの人物に、無意味に与えられているものではない。わたしの心の創造物、すなわちこの六人の人物は、かれら自身のものであって、もはやわたしのものではない、各自の生命に生きている−


 ブログで真面目な文章を書いているとは俺らしくない。金にならない文章は時間の無駄だ。と云う訳で、軽く書いていこう。と思ったのも、この様な事が身に起きたとか深刻に相談されたらどうするよ。「ちょ、おま、病院行けw」と。いや、俺の場合は理解できるが、キチガイでは無いが、いやそうかも知らんが、ともかくフツーの人から見ると、この文章自体が物語の一部にしか見えんだろうと。実際そうかも知らんが。メタフィクションなるモノを読んだ事の無い、小説自体は読んだ事のある、頭の良い読者が、真剣に、上演されない"序文"自体と舞台を含めて考えると、何がなんだか解らなくなり、笑い出し涙が止まらず本に顔をこすり付け、外に走り出し「ばがやろ様!」と叫び、急に落ち込み電柱に抱き付き俺が悪かったと呟き鬱になる程のチャイニーズ・ボックスである。注:類似のセンテンス-加納一朗北杜夫筒井康隆いがらしみきお


 まぁ続けるが、ピランデッロにまとわり付いて離れない登場人物の描写は以下になる。

−長篇小説の六人の人物は、かれら自身の考えで、あくまでも生きつづけようとして、書斎の孤独のなかにいるわたしに会いにきて、わたしの一日のある時間をつぶさせ、ひとりずつ、あるいは、ふたり連れだって、やってきては、表現すべき、または描写すべき、あれやこれやの場面や、引きだしうるいろいろな効果や、新奇な構成を作りうる斬新な興味などを提供して、わたしをさそいこもうとし、そしてさんざん、しゃべりちらすと、帰っていったのは事実である。−


 この後彼は「その観念から出る方法が、頭にひらめ」き、それを戯曲とするのだが、それ以降の引用は省く。即ち、"作者をせかす6人の主人公たち"は"作者を探す六人の登場人物"の"舞台"では無く、その"序文"の構造に近いのであろうと言う事で。これはピランデッロの作品への批評では無く、また、上演されていない"作者をせかす6人の主人公たち"の感想でも無く、前者の"説明"であり、後者の"予想に依る宣伝"である事は書くまでも無いと思うが、観劇後、「全然違うじゃん」とか後でメールを送ってくるアホがいると困るので書いておく。

 で、序文に就いて書いたが、本篇はどういったモノかと云うと、まぁ基本めんどくさい。多分検索すれば誰かマトモなヒヒョー家が書いているだろう。折角だからざっと書いておくが。これも飽く迄"説明"ね
 '80年代辺りまででメタフィクションは一応書き尽くされた感があるらしいが、なんか未だにメタフィクションまがいが流行ってるので、解り易い言葉を使うと劇中劇である。併しこれは奇を衒う為の設定ありきのモノでは無い。舞台の練習中に、"登場人物"が入ってくる。彼らは作家に扱ってもらえない。故にその舞台の演出家に"生かして"もらおうとする。構造は舞台の俳優達と演出家に対し"登場人物"となる。そして舞台そのもの、実存(久々に使ったw)等にも言及する。これが発表された1921年当時など、勿論メタフィクションなどと云う言葉は存在しない。併し色々その類のモノが流行った後、若しくはそれのみに依存した作品は終焉した現在、その中でも非常に秀逸な作品であると言える。

ピランデッロ戯曲集〈2〉

ピランデッロ戯曲集〈2〉

 文章は以前にも紹介した上記のものでは無いが、俺の持っている物は出版が古く、古本で購入したモノなので、取り敢えず見付けたモノを貼っておいた。疲れたので色付け無し。読み辛いな多分。まぁいいや。一応宣伝だから。

 またコピペしておく。

"作者をせかす六人の主人公たち"

東京芸術劇場 中ホール 

2009年 2/11(水・祝) 17:00開演
      2/12(木)     19:00開演
      2/13(金)     14:00開演&19:00開演
      2/14(土)     14:00開演&19:00開演
      2/15(日)     14:00開演

 〜 引用文献 未完成喜劇 "作者を探す六人の登場人物" ピランデルロ -岩崎純孝訳- "世界文學大系 近代劇集94" 筑摩書房