最近人を愛しておらんなーとか気付いたりなんか

"愛"と云う名辞自体日本では曖昧な感を受けるが、それは元々この国に概念自体が存在しなかった(普遍的に)事に由来するのだろうと思う。而も発言する事自体に恥ずかしさを伴うであろう国民の習慣から照らし合わせれば、現代ですら、尚更人に依って異なるのは当然であろう。
俺が書いた愛とはキリスト教の"アガペー"であり、儒教に於ては五常の"仁"である。

かわいそうな心理学者が10年以上前からカタっている"自分を愛する事"が先で、その後に他人を愛せると云った陳腐な内容のホンは未だ売れているのかも知らんが、自己愛は余程の疾患が認められない限り多くの人間が持っているモノであり、逆に自我が肥大してとんでもない人格の人間が増えている事は書くまでもないと書きたいが、それなら書くなよとの話になるので書かないでおく、と書いた時点で書いていると云う矛盾。

自己愛があっても自身を好きでは無い人間が多いのは事実であり、併し自分の好きな物、人を貶されると、例え正当な意見であれ、感情的に拒絶を起こし反発するか心地良い場所に避難するかとの行動を起こすのである。
恋愛に於ては、就職、試験等の様に、その局面一部に於て自分自身のミス - 就職だと相手方の状況にも依るが - があったでは片づけられず、告白して断られた際に自身を全否定された様な気分になる傾向があるが、それ故所謂"二次元、有名人に走る"のかも知れない。

また逆に他人の好きな物を、好んで非難する人間もパーソナリティとしては同じであろう。
ともあれ、特に負の話に於ては、自分の何らかの発言に際し感情が先であり、その次に理由付けをする人間が多いのは歳に拘らず多く、特にツイッターなんぞでは特にその本性とでも言うべきモノが露呈されるので面白い。面白いと言っても楽しくはないのですぐフォローを消していたが。
始めて2〜3ヶ月程度でつぶやくのも止め、見る事も少なくなったが、フォローしてすぐに残念な人と言う事が解って解除を繰り返していた。数少ない漫画の単行本を購入していた樋口橘さんもその一人である。

そーいやローゼンの8巻を読んでおらず書棚に並べた儘であった。自宅で観る映画と同じで、精神的に落ち着いた状態で読みたいモノなので。
小説でも漫画でも映画でもクリエイティヴな娯楽は基本的にそうだが、作るのには多くの時間を費やすのにも拘ら
ず、消費されるのはあっちゅー間なので、せめて集中して読ませて頂きたいと思っているのである。
ラリってる状態でも"ブラジル"や"トレスポ"、"クリスティーナ〜"は、まぁ何度も観ているからと云うのもあるが、それ程心に余裕が無い時でも観られるが。
アニメの場合は食事時に観て、時間を空けてまで観たいとは思わないモノが多い。
また、音楽の場合は上記のモノとは桁が違う回数繰り返し聴くので別物である。

余裕と云えば、少し落ち着いたので"ARIA"を観たが矢張り良い。この作品も、別な意味で、心が平穏な時にしか入って来ない。"ARIAを観て癒される"前段階として、心に余裕が無いと楽しめない。
と云う訳で