wikipediaってやっぱアホだよな他3本(適当)をお送りします

 かなり前に「時間って存在するのだろうか」なんぞとトイレで思った事に由来、したりしなかったり。概念上に留まる、ってだけでなく、物理的にとの話。卑近な例だと植物の成長と日照"時間"の関係等から。こちらはイディオムとしてよく使われる"石を穿つ水滴"も長い"年月"を意味するが、時間では無く、簡単に言えば"回数"に置換できるのでは無いかとか。長くなるので持論・仮定・考察はこの辺にしておくが。哲学者系の人の書籍は面白いが、ドーキンシストやマシスト系の物理学者の言は受け付けない故よく知らん。
 で、この間ちょっとwikiで"時間"の項を見たと。その中で"時間の向き"と云うモノがあり、"時間は未来から過去へ流れている"との説が書かれておった。何でも"過去から未来へ流れている"と云うのは「ユダヤキリスト教の伝統に沿った時間観に過ぎない」らしい。
 これに就いては先ず"過去=前、未来=後"の出来事と捉えられるので、"流れ(ヴェクトルの方向)"に関しては特に考えておらんかったが(無論、前の後に後が来るのだが)、名辞の使い方自体を考えるべきでは無いかとの疑問が湧いたと。引用したセンテンスを言い換えると、"未来→過去"="後→前"に流れると。これだけでは後の事が前に影響する訳であり、実際その様な記述がなされているが、これだと同様「自分自身で明るい未来を切り開くことなどできない」とwikiに書かれている事と矛盾するのである。更に「自分に向かって未来がどんどんとやってきては過去へと消えてゆく感覚」に対する「自分が過去から未来へと向かっている」との"流れ"は概念としては全く変わらず、単に観察者の視点がどこにあるかの違いに過ぎない。而も"感覚"との主観アゲインに関しては何をか言わんやである。こちらはwikiに引用されている文章も含めツッコミどころ満載であり、又俺の反証も言葉足らずではあるがめんどーなのでここで終わる。
 2点目に、キリスト教言語学的に考えた場合、コイネーに関しては動詞アスペクトが時間を相対的に、語る人間からの視点で決定されるとのStanley E. Porter教授(他)のアプローチが一般のコイネーを学ぶ際に、他の通常の外国語の入門書の様なそれとは違い興味深かったのと、亦特に先にも述べた"流れ"に関してはユダヤキリスト教共に特に重視している様な事は、俺は知らんかった事にも由来する。例えば、"エレミヤはその時神の御霊を受けこう語った「イスラエルの民よ、時間は過去から未来に流れている。この言葉を信じない物は滅ぶであろう。」"的な。かなり適当だが。
 追記・加筆一部:Stanley氏の書籍及びコイネーに関してはあんま関係無い&学ぶ際に入門書を少し読んでからついでに学んでおった為にそれと同義に見られる書き方をしてしまったが、単に俺がそうであっただけで実際には中級以上のものであり、言語学的な分析の一つでもある。
 又、引用するのに適切とは言えなかったが、キリスト教的な話だったので、思い付いたモノを書いた次第だが、修正は面倒なのでその儘。ついでに最後に用語の解説を加えた。 Dec 16
 まぁ疑問を持ちながらもそういう考え方もあるのだなと読んでいたのだが、その後であからさまに客観的では無いセンテンスを発見する事となる。
 「西欧人はキリスト教的な世界観・時間観にどっぷりと漬かって生きていることもあり、時間の流れに関しては固定観念を抱いていることが多い。」
 先ずこの"どっぷり"との副詞である。明らかに主観、以上に感情が働いている文章と読み取れるであろう。又、西欧人加之日本人も"過去から未来へ"と捉えている場合が多く思われ、単に一神教嫌いの様にしか見られない。そして上記のものも含め、多くの文章に"要出典"を付けなければならんのでは無いかと思ったのだが、どうでも良いwikiの項目 - 例えばアニメ等 - にも散見される上記の、注意を喚起させるモノが1つもないのである。
 で、その"時間の向き"とやらに紙面を割いている学者は誰であろうと見たところ"苫米地英人"さんと云う人。俺も脳に関しては色々ヤスい本(併し分野は異なれど真っ当な学者)をメインに読み、最近はやっぱ分子生理学も理論だけじゃなく化合物とか覚えなきゃならんかな(こっちは実は嗜好に繋がるモノだが)と思っていたが、彼の本は、タイトルしか見ておらんので判断はできかねるが、明らかにイッパン的に言われるところのエセ脳科学に繋がるものだろうと思われる。
 而もこの人のwikiを見たところ、スピリチュアリズム批判をしているにも拘らず、自身が同様の手口でセミナーを開いておるとか。更には仏教(一部)も学んだとか。もはや何がなんだか。因みに仏教はキリスト教の様な解釈に依る違いよりも、"人間"に依って多くの分派を生み出したとの歴史は日本人に知られていない。
 ともあれこの様なエセ学者は仰山おるのでこれ以上調べはせんし、頭が悪い大衆がそれを読んで勝手に洗脳されるのは本 - 所謂コンプレックス商法やHow2 - と云う媒体に限らないので勝手にしてくれと思うが、ともあれwikiの"時間"の項で論争が起きていないのが全くもって不思議である=信用ならんとの話である。

 wikiに関してもう1つ。この間偏頭痛が慢性的では無くなったとの話を書いた後にちょっと調べてみた。因みに表記は片頭痛だったが。で、こちらでは何を疑問に感じたか、と云うかやっぱ医学ってアホだなと思ったって話なのだが、偏頭痛を起こす要因(として語られている説)が非常に多く、更に大して気にしていなかった人間を不安にさせるのではないかとの説明も又非常に多く書かれておるのである。
 心理的(ここでは人文として扱う)なものは別として、人体=物理的な疾患の原因が複数挙げられる場合 -生活習慣は含まない- 解明されていないのと同義であり、病気を疑う人間はネットで調べる事が(精神的に)危険であると、まぁこちらに関しても書籍も同様であるが、知って欲しいと思った次第である。
 精神的な疾患は、特に鬱なんぞは増える一方であり、患者は薬を出す医者のギニーピッグとされているのだから、ビョーインに行っても治るかどうかは上記の媒体を読むのとさして変わらんとも云えるが、少なくとも"専門家"からアドヴァイスをもらえ安心感を得られるとのメリットはある、と書こうとしたが、エセ科学や衆愚信仰も彼らから見たら"専門家"なのだろう。

 畢竟、いつも言っておるが情報処理能力、及びそこから得た知識、そして応用が必要なんだろうなとの結論になってしまう。因みに人文として扱った心理学→カウンセラー・心理療法士(理学系と両方の資格を持っている人間もいるが薬を使わない人間として)も、詐欺まがいの〜療法で金を稼いでおる人間もおると、同様の問題は存在する。

 "信仰が無い"と多くの人間が云う日本に於ては、神はおらずとも何かしらを信仰の対象とする。水商売(ゲーノー、アスリート)をしている人間がゲンかつぎとしてスピリチュアルだったりスードウサイエンティフィックなアクセを身に付けたりとの事実は多く見られ、イッパンの人間でも少ない情報からそれらに影響されている例は多く、何からも影響されないと云う人間の方が逆に社会的に適合できていないと考えられてもおかしくはない。
 
 大戦後SF黎明期に想像、予測された"物質主義社会"から"精神主義社会"に以降するのはいつになるのだろうか。土台も無く、他のセンシンコク中トップの物質主義国[要出典]であり、エコノミック・アニマルと言われ、特に情報と云う実態の無い物には金を払うのを躊躇する(星新一氏も仰っていた)国民性がある日本は、何かしら大きな事柄、世界的に、が無い限り変わりはしないであろう。俺はこの国が滅ぶ限り変わらんと思っとるが。



 最後に明るい話でも書いておくか。ストックしていたのんのんびよりを観たが、8話の"学校でごはんを炊いた"が阿澄佳奈回で嬉しかった。これはまた今度書こう。つって今回もかなりブログを書いておらんかった様だ。


*ドーキンシスト:リチャード・ドーキンスの様に、無神論者と云うだけでなく、科学至上主義の様な組織を作り、結果自身が"排他的な宗教の様なモノ"を作ってしまう様な傲慢且つ自己矛盾を孕んだ人間及び、その様な考えの持ち主。適切な用語が思い浮かばず、取り敢えずこの様に表現した。
 人間は、その性質に於て"矛盾を抱えて"生きる事は、感情、理想と自己の性質等、に関しては避けられ得ぬ動物であるが、理論を展開する場合に関して、それを提示する際には、論理の一貫性が見られない場合信頼しかね、亦何らかの精神的疾患を示唆させるものと思われる。特に影響力のある人間では信奉者を生み出し危険となる為に憂慮してしまうのである。
*衆愚信仰:以前は大衆信仰と書いていたが、これだと一般の人間が生み出した神道の一部になるモノも含まれる為、衆愚に置き換え使用する事とした。
*スードウサイエンス:ψευδο-science.希プリフィクス:偽り、嘘。因みにこちらも造語を作ろうとし、一応検索したところ既に存在しておった^^; 結構英語知らんのね俺。