京騒戯画 #10 "今日を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画"の感想と云うか感動に関して

 約2/3程泣いていたであろうか。而もシラフの状態でである。アニメと云う媒体に於て、帰宅部活動記録が変則的な"笑い"を提供してくれ可能性を残してくれた様に、こちらの作品も"感動"に於いて同様のそれを与えてくれた。
 まぁ何の媒体であれ簡単に泣く事は多いのだが、こちらの作品がそれらと違うのは、通常のアニメは結果が読め、よしんば解らずとも展開は同じである、若しくは複数の選択肢でも(オートで)予測出来るものである。あ、"幻影ヲ駆ケル太陽"は一部を抜かして最後の2話は結局観たが、最後のループで精神的に追い詰めていくとの発想は無く、第一話を観て俺が書いた予想・希望を上回るモノではあったが。
 で、話を戻すと、"何をしたいのか"が全く読めず、作品に入り込んでいないにも拘らずこの10話のみで涙腺崩壊が起きたとの部分である。特に石田彰氏は前回か前々回からだか、流石石田氏との謎の行動を起こしており予測すらせず観ておったが、この様な大団円になるとは、と。


 勿論展開としては、子供三人の性格・成長等、彼らの背景は1本から2本割かれて説明されておったが、感情面では特に、演技も関連してか彼らの悲劇的な部分では心を動かされる事は無かった。実子であるコトに関しても同様それがあったが、そちらは特に感動を誘うモノでは、元から意図されておらんであろうと思うが。
 唯、画に関して、例えばアングルがフォーマット化されておらず且つ単に変わった事をしてみました、で留まらず効果的であった事や、人間か何か判らんモブの様な住民や町並みも含め全体的にシュールレアリスティックで面白かったとの部分で観ていたと。#4で八瀬がフィーチャーされる回での、"捨てるモノ"が浮遊して列車に回収されるシークウェンスは、先日書いた"ネタ"としても使える面白いモノと思われる。
 "アングル"で思い出したが、小見川千明ちゃんの昔の声でも聴いてみようと書いて暫くした後、"ソウルイーター"を観たが、あちらも色々と面白いアングルで撮って(と云うか描かれて)おり、色も原色が多く、確かに「スタイリッシュ!」(CV 下野紘)なモノではあったが、後者に関してはアメリカのアニメで昔から使われているモノであり、特に作品全体として、死神が出てくる事にも直接繋がり、某作品を思い出す為にオリジナルとは言い難いモノであった。因みに小見川ちゃんは矢張り昔の作品だった為ちょっとアレではあったが、声自体は良かった、と云うか他二作品と同様だったので当たり前だが。

 まぁともあれ、狂騒戯画に関しては、先に書いた様に"画"と"謎なアニメ"と云う視点で観ており -製作者の意図と反してであろうが-、結構ギリギリなラインであったが、切る事は無く観ておった次第である。
 唯、虚構であり乍ら合理性を保っている(これらは対立するモノでは無いが)と云う部分が監督の意見にも見られ、それが今回態々ブログを書く羽目になった#10にも繋がってきており、それが泣かざるを得なくなった一因となったのかも知らん。丁度チバユウスケ氏がフレグランスの広告に使われるのでチェックしておったところ、紹介されていた一部のサイトでたむらぱん氏と監督の話がノっておったを見かけたのである。こちらのサイト→ナタリー
 たむらぱん氏も数年前に好きになったモノの、作品が良ければそれで良しで、特に発言なんぞはチェックしておらなんだが、今回こちらで興味深いモノが見受けられたが引用はハショり、上記"合理性"に繋がる松本理恵氏の言葉のみにツッコむ。
*引用部
私はアーティストとして作品を作っているわけではないので、「最低限、作ったものでお金を稼がなくちゃいけない」という目的もあって。自分だけのものを突き詰めたいのであれば、会社に入ってアニメを作るんじゃなくて、作家のほうにいくという道もあるし。
ここまで
 実際、ホンを書くのもかっこよく響く"アーティスト的作業"だけでは無く、金を稼がねばならん、って部分はあるのだがそれは扨置き、以前俺が一部のアニメ監督の姿勢を非難し、その際に「取り敢えず1人でも書けるんだからホンでも書いてから」的な事を書いた事もあり、この松本氏は若手ながら、ブランド監督やあちこちに噛み付く劣等感の塊の監督よりも解っていらっしゃる、と思った次第である。単に自分と意見が同じであるから、との話では無く"簡単な真実が見えている"からである。かと言って、勿論評価には影響せんが。


 では、先に"合理性"の部分に就いて、10話から何がそれに該当するかをピックアップするが、石田さんがコトに拳を打ち出される→受け止める→コト頭突きの流れである。こちらも監督からすればどうでも良い部分かも知らんが、喧嘩慣れしているコトがきちんと次の手を打つと云うのは、細かい部分ではあるがリアルなのである。而も不意を付かれた石田氏が面白いし、愛に依る怒りの一撃を与える事もできた。
 なんかアナライズすると感動が薄れるし、したくはないので、つか腹も減ってきたので(本音)後は適当にまとめるが。


 まぁ久川綾女史も含めこの親子の演技は良く、特にコトは通常時とこの回での感情をぶちまける演技のギャップが凄い。ナイスキャスティング。石田氏とコトのぶつかり合い、実際は一方的であるが、の間に過去の時間切片を挟んだ部分も良い。ここは鳥獣戯画で描かれている動物が、いきなり神だと言われ、疑問を持たず受け入れるコト等、説明も含め、一度笑える部分を作り落ち着かせてくれる。
 この宗教に関しての設定は、最近神道モノ(含・唯の戦闘メインのラノベ原作)が多かったりするのだが、神自体は描かれない事が多く、こちらは仏教・神道をいっしょくたにし曖昧な儘で「日本の神様は良いね〜」で終わるモノとは違い、"創造主"を取り入れながら、SFとして捉えても明確に処理されている。何故あの3匹かはワカランが、勿論前述した"合理性"と"説明されない儘で終わる"との事は矛盾しない。
 後はよく書くが、石田氏に関しては"感情移入"で作品を判断する且つ他人の心を想像できない人間に依って判断が分かれるであろう、俺からすると、と云うかこちらは製作者に取っても、重要な描写の部分であろう。
 彼に関しては俺もペシミスティックな部分が大きい為、共感に依る感動もあったのかも知らんが、少なくとも石田氏は子供に希望を託しておる。性格に関しては、現実にいるダメだけどモテる男に見えなくもないが。少なくとも多くの物、自分の被造物にではあるが、愛情を持っているとは語られている。古都と共に、親が登場しない、或いは影響を与えない昨今の(昔も知らんが)アニメ作品の中で、家族の愛を表現している部分も心を動かされる要因となったのであろうか。


 何にせよ、バックグラウンドが壮絶で無くとも、重要人物が死なずとも、「おめでとう」「ありがとう」が無くとも、海に住む人間と陸に住む人間の確執の破壊がカタルシスとならずとも、この様なシンプルな"愛"に依る感動を -1つの解釈ではあるが- 与える事は出来るのだと、このアニメで思った。無論アニメ化が多い"絵本"では無い小説やまんがでは沢山あるが、それまでストックした情報は薄く、よく解らない儘観ていたモノが、一話でここまで瞬発力を持って感動させられる媒体としてアニメの可能性を垣間見た気がした。コトに依り伝えられるメッセージもシンプルではあるが、星の王子様ときつねよりも心に響き、又勿論(意識の表層に出てきていないモノも含め)映像の情報も大きいかと思われる。
 そう言えば男同士 -石田氏と薬師丸- は語る事を照れ、女性同士 -古都とコト- は無条件の愛(特に母親特有の)で結ばれているとの描写もリアルである。
 この回は密度が高いので他の事、コトと明恵が親を探しに行く時間を超える様な解り易いがどの様な構造なのかとか、石田氏と古都がいた次元に描かれていた朝顔や剣、その他の背景も何かのメタファーなのか等考えたいところだが、取り敢えず感動した儘で暫くは放っておく。
 何度も書くが、"謎"ではあったが、初期よりナレーションで語られていた「これはとある一家を巡る愛と再生の物語である」との説明は、誇張にもならず、テクスト通りではあるが -感情的には修飾語句をもっと付けて良い程の- この回に於いて作品を完璧に表現する一文と感じた。
 でもまだ続くみたいだけど。