I've learned something today

 その女性が自己の損得勘定抜きで行う他者の感情への善い働きかけ、知性を持った会話を持てないとするなら、男性に取っては唯の性的対象でしかない。後者は哲学的考察と云う物を女性がその本性(ほんせい)に於て出来ないであろう事は、サイエンティストに属する天才と呼ばれる女性はいても、スカラー、殊に哲学者や思想家に於て偉大と呼ばれるそれが皆無であるとの歴史から見ても解るであろう。大脳生理学に於ては、近年"女性脳"と"男性脳"があるとの、多分妄言が詰まったであろう書籍が見られるが、脳に於ては現在明確な違いは脳と脳梁の相対的な大きさしか見られず、以前も書いたかも知れぬが、私は構造よりも神経伝達物質、その中でもアナログであるホルモンに関係するのではないかと思っている。
 誤解に於ては同様「女性は感情的であり、男性は論理的である。」とか「女性は現実的で、男性は理想主義である。」等との衆愚信仰にも似た物が古くから語られている。前者に関して云えば、女性でも論理的に考える事は出来得るし、男性の方が議論に於て感情的になる事もしばしば見受けられる。それよりも決定的に違うのは、女性は"論理的では無い"のでは無く、"即物的"な考えしか出来ないとの事であり、それが先に述べた"哲学的な思考が出来得ない"との事になる。幾ら海外を飛び回ろうが、アルファ・ケンタウリ近辺の惑星に行って異星人に会おうが、ともかくどの様な経験をしたところで、物事の本質に関して考える事をせず(出来ず)、その対象をその儘の姿で受け取り、精々が知識を増やす事にしかなり得ぬ故、生涯"井の中の蛙"で終ってしまうのである。これは正しく俗人の性質と同質であり、結果女性は凡そ俗人であるとイコールになる。断るまでもないが、多くの男性も俗人である。故に女性が"世界"だったり"人生"だったりと抽象的なもの、中でも規模が大きいとされるものに就いて語ると滑稽に見えるのである。前述した科学的な推論、とも言えぬテーゼからすると、月経が始まる前、及び閉経後は哲学的になり得る -無論教育や環境に依るが- と考えられ、実際にまだ子供の内であれば、細かい事象や事物にも常に新鮮な驚きを持ち、批判や疑問を持つ女の子が存在する事からも帰納される。老人に関してはサンプル数が少な過ぎて判断出来ない。個人的には祖母に愛されていた為、倫理的にアホではない女性の老人は加齢臭も含め好きである、とだけ書くに留める。論理的な面に再び戻ると、PhDを持ち理路整然と考え、物事を語る事が出来る論理的な女性もいるが、飽迄も知性が高い様に見えるだけであり(これはこの言葉の概念に依るのだが)、形而上的に考え会話出来る人間の存在は疑われる。
 前段落の後者に就いては、"現実的"の現実が何を指すかも人それぞれ違うであろうが、人生に於て男性も現実的である様は幾らでも見られ、例えば企業等はその代表であり、現実的に金を搾り取る方法のみを考え、実際に成果をあげているそれが存在する。損得勘定で動く原理で言えば、企業と女性は至極似ており、衆愚を作り出す事を厭わず自らの利益のみに動き、謝る時もその為でしかない、との部分は全く同様である。この命題が使われるのは多く恋愛に就いて語られる場合であると思われるが、それに関しても、女性は理想を抱く事は出来得るし、男性も現実的にアプローチする事が出来る。冒頭に書いた事は10代後半か20代前半辺りに気付いていたが、男性が現実的(効率的)に対象の女性と関係を持とうとする場合には女性の性質を知っている人間に限るが、相手が喜ぶ事をし、相手が望む様にその感情に合わせる術を使う事がそれに該当する。併し私は、それを望まない為に、解ってはいても現実的にはなれなかった、いや、現在もなれずにいる。包丁で人の気管を裂けば相手が死ぬ事は、或る程度の年齢になれば解る事であるがしないのと同じ様なものであり、法律で縛られるか(自身の)道徳に縛られるかの違いである。


 扨てここまでは(ほぼ)単なる事実であり、最後に個人的な事を付け加えると、知識を身に付け、若しくは身に付けず、低俗な思考回路で人生を語る女性に関して、こちらは中学辺りで経験的に知っており、単に"愚かである"との表現であれば、思想家や小説家(特に御大)等に高校辺りに何度も活字から語られたのであるが、そうではない人間もいるであろうとの期待を抱いて生きてきて、人生の半ば辺り(若しくは96パーか1/3かは知らぬが)になって漸くそれに疲れ、ほぼ諦めたとの事である。無論素晴らしい女性は存在する。その様な女性は先にも述べた、自分が信じる真理及び本質を悟った様な気にならない、即ち、繰り返しになるが「人生とは〜である」、「男性は〜な生き物である」等とは語らない人間である。マザー・テレサは語るよりも自らの行いを常に自省し -クリスチャンであった為、実際には"自省"とは違うものであるが- それよりも見知らぬ他人の為に働いた女性である。多分、私の知る限りでの最も有名で女性らしい人間と思われ、考えるに、女性は哲学的考察は出来ないが、それ故に愛情を注ぐ事に尽力する事が出来ると云うのが、男性には無い特質ではないかと思われる。即ち、別の方法ではあるが、他人の為に働いた天才と呼ばれる哲学者や思想家も、行動はしても、考え、書物を残す時間に(相対的に)多くを割く人間しか見られないからである。抑も哲学者の語源がおかしいと思われ、"知識を愛する"よりも"考える事を愛する"のが哲学者、又は哲学的思考をする人間であると私は思う。
 ともあれ「人生楽しんだ者勝ち」とか「人生は素晴らしい」と言う人間は、飢えに苦しんでいたり、紛争状態にある国に住んでいたり、知的・身体的障害を持っている彼等の目の前で同じ事を言ってみて欲しいものである。唯の自分中心で物事を考えるオプティミストは(知性の高い人間には特に)害悪しかもたらさない。それこそ利益第一の企業の様に。その様な人間はアドヴァイスをする際にも、えてして「色んな人がいるからね」などと、自分を"色んな人"に含めず、他も定型句を発するだけに留まる。



 女性の事を散々書いた後に何だが、葉山いくみさんご結婚おめでとうございました。いきなりだけど書く時間を取れなかったんで。いやー、素敵ですよ。ブログやってるんですよ彼女。で、アメブロなんで知らん方は知らんと思うけど、"ペタ"と云う、LINEでの既読やmixiでの足跡を付ける様な機能があると(前者は読まれたのが解るとの意に於て)。で、彼女は結婚の報告をした記事にコメントをした人間に対し、感謝としてそのペタを全て付けて回ったと。"付ける"と云う表現が正しいかどうか知らんけど。いやー、凄い労力ですよ。勿論声優としてそれ程有名では無いので80件弱と。それでも俺はめんどくさくてとてもできん。結婚後にそんな事をする著名人なんて見た事ないっす。抑もが彼女と阿澄佳奈氏の2名しか結婚報告ブログ見た事ないから知らんけど。因みに阿澄さんは初めてリアルタイム(24H以内)で結婚報告を見られた人間であり、俺が結婚を絡めた今更感漂う藍染さんネタを書いた24H以内(あれ?当日だっけかまぁいいや)に結婚報告をして驚いたものである。単に直感や論理的に導き出したそれが現実となった事は幾つかあったが。その様に素晴らしい側面を持った女性はちょいちょいおるが、まぁ全体として、つか根幹の部分では、ね、となってしまう。葉山さんは素敵な儘で素晴らしい結婚生活を送って下さいまし、と思うが。あと、折笠富美子様がたんぽぽの画像を貼ってかわえかったので無断転載しておくか。ありがとございやす。勝手に感謝して最後に貼っておくのがその画像なんで事務所さんとかクレームがありましたらメアドから以下略。
 つか人間が作った物って飽きるけど(暫くするとまた面白く読めたり観られたりするけど)、空とか雲とか花とか満月とか、まぁ好きな物に限るけど、ほんと何十年見ても飽きないのが不思議である。無論、作られた量との相対的な話であるが。そして飽きたら困るが。また話が広がるが、先に書いた事と反対に「世の中なんてつまらん」と云う愚者、若しくは天才には「世の中につまらない人間が多い」だけであり、「この世自体は然程つまらなくないよ」と書いておく。愚かな人間はこれを見ても解らんだろうが、頭が良い人間であれば解るであろう。自然を見るだけで色々考えられるのだから。またつまらん人間を見ても、関わらない限り、行動を見て考察する事は面白いであろう。まぁこちらは飽きるが。


 ともあれ女性に関して諦めたって云うのは、好きである事が出来なくなるって事であり、人生の楽しみが1つ減った訳である。つか抑もがそれを知っていたのもあった故、ここ数年現実で動いておらんってのもあったが。桜井弘明監督はJPHの最終回で、って書くと長くなるから今度ヒトワク設けて書こう。最近また暫くブログ書いておらんからいつになるかワカランが。でもJPHが終了して楽しみが減ったのもかなり大きい。同列かよ。でも"或る側面だけ"好きって状態だけは残しておこう。因みに女性に就いてよりちょっとだけ前に、俗人に関して、ってのは気付いたのだが。動物と人間、男性と女性、天才と俗物、これらは同じ位互いに理解出来得ぬ存在である。因みに天才が上と考えるからイッパンの人間は怒るのだが、単に種類の違いだと考えれば怒りも起こらんだろうと思うのだが。実際に俺もそう思っとる。天才の定義もそれぞれ違うが、まぁそれはブログに書けないので、俺の概念としては一点に特化した天才はイディオ・サヴァンと変わらず、パフォーマーやアスリートも又然りである。無論、蔑視している訳では無く、その性質の類似性の話に於てである。思考方法の違いだけであり、遺伝では無く環境で決定されるものと考えられるので誰しもなり得る筈である。知能が高い=天才と、必ずしもなる訳では無い。あ、ここら辺にしとこう。ともあれ家庭や幼少時の人間関係、読む物、聴く物、聞く物、訊く事は大事だよって話で。これは知性と対比されてしまう感情に於ても同じであり、幼少時に自分が欲する基準の愛情を与えられずに育った人間は愛する事は出来なくなってしまう傾向が大きい。愛すら否定する様になり、それは自分の存在を肯定する為である。逆に愛を与えられ過ぎ、所謂"過保護"で育った人間は、愛する事は出来ても、愛を欲求する方が大きくなり、こちらも健全とは呼べない。これを律するのが知性であろう。人間に於て、無条件な愛が母性的とするなら、倫理観等の知性で他者の事も考えられる様になるのは父性的なものに依る。字面にするとめんどくさそうだが、感情のみで怒らず、愛して、悪い事をしたら叱れば(これも愛だが)良いだけの話なのだが、その"悪い事"の基準が曖昧で、且つ母親が自らの延長線上と考えてしまいがちな日本では、自分の子供が他人に怒られるのは自分がそれをされた事と同様に感じて、"悪い事"を教えるより先に、自らの保身の為に逆ギレしてしまうのである。故にいつも書いておるが、自我が肥大しておる人間の害である。例え子供の前で幾ら取り繕っても、子供は親の本質を見抜くものである。「子供は親の"背中"を見て育つ」とはよく言ったものだ。
 また長くなった。ほんと終わろ。





 "Shadow Theater " - overdream