その命題とはこうである。「あらゆる愛[アガペー,カリタス]は同情である」。-第66節
 泣くことはしたがって自分自身に対する同情なのであり、あるいは自分の出発点へと連れもどされた同情であるという風に言ってもよいかと思う。それゆえ泣くことは、人を愛し同情する能力によって、ならびに想像力によってもたらされるものなのである。こころの冷酷な人間や、想像力を欠いた人間が容易に泣かないのはそのためである。-第67節
 人が死んだ場合に泣くというのは、一般的なことだし、自然なことだが、その主たる理由もまたこれと同じであるように思われる。(中略) してみると彼の心を主としてとらえているのは、人類全体の運命に対する同情なのである。全人類は有限性の所有に帰している存在であり、どんな勤勉な生涯も、またどんな活動的な生涯も、この有限性のゆえにしょせんは消え去って無と化するほかはないものであろう。ところが人類のこの運命の中に、彼はなによりもまず彼自身の運命を見てとっている。-第67節

 "意志と表象としての世界" - ショーペンハウアー [西尾幹二訳,中公]


同情は苦しんでいる者に対して慰めをもたらすどころか、むしろひとは同情に際して彼自身のエゴイズムを懐抱し養育しているのである。ひとはより深い意味においてそういうような事柄に関して反省することをあえてすることなしに、「同情」によって始末をつけているのである。同情している人がその同情に際して、問題となっているのは自分のことなのだということを最も厳密な意味において理解しているような態度で、苦しんでいる人に対する場合においてのみ、そうして、彼が苦しんでいる人と自分とを同一視することができ、解決のための努力において自己自身のために苦闘しつつ、一切の軽薄さ・女々しさ・卑劣さを拒否する場合においてのみ同情は始めてその意義を獲得するのである。

 "不安の概念" - キェルケゴール [斎藤信治訳,岩波]


「それならなぜ、キリスト教は存在するようになったんだろう?」
「それというのも、キリストがこれを為したからにほかなりません。彼は人々を心配したのです。『心配する』というのがギリシャ語のアガペやラテン語のカリタスの正確な訳です。キリストは空手で立っています。彼にはだれも、自分自身さえ、救えません。けれど、他人への彼の気づかいや尊重によって彼は卓越するのです――」 (ウィリス)
 (中略)
「もう潜っていいかしら?」とマリがいった。
「もちろん」とジョーは答えた。彼女が理解していないのは明らかだった。しかし、奇妙なことだが、ウィリスはわかっている。ふしぎだ、とジョーは考えた。マリに理解できないのにどうしてロボットが理解できるんだ? カリタスこそあるいは知力の要素かも知れない。ひょっとするとおれたちはいままでまちがっていたのだろうか。カリタスは感情ではなく、知的活動の高度な一形態、環境の中のあるものを知覚し、察知し、ウィリスがいったように、心配する能力なのだ。

 "銀河の壺直し" - フィリップ・K・ディック [汀一弘訳,サンリオ]


 むしろ、あなた自身に対する真の愛好はあなた自身に対する憎しみなのである。主が言いたもうたとおりである。曰く、「自分の命を愛好する者はこれを失い、自分の命を憎む者はこれを見出すであろう」と(参照略)。そして使徒はピリピ二(・四)に、「おのおの、自分のことばかりでなく他人のことをも考えなさい」と。また第一コリント十三(・五)に、「愛は自分のものを求めない」と。だから、自分を憎み隣人を愛慕する者は真に自分を愛慕するのである。なぜなら、隣人において自分を愛慕するかぎり、今こそ彼は、自分を離れて自分自身を愛慕しておるのであり、したがって、純粋に自己を愛慕しているからである。

 "ローマ書講義" - ルター [松尾喜代司訳,新教出版社]


「人間がわたしたちに何をしようと、わたしたちには関係ありません。たとえば窓ガラスを誤って割ってしまったとしたら、人間は『悪いことをした』と思うでしょうが、ガラスにとっては別に何でもないのです」
 (中略)
「例えば・・・・・・、リリコ、そこにいる少女を地面に叩きつけて割ってごらんなさい」
「えっ?」
「大丈夫、割っても構わないのです」
 リリコは子供くらいの背丈の少女をじっと見つめた。少女の横顔は無表情だ。
「・・・・・・そんなことはできないわ」
「そうですか。それはあなたが人間だからでしょう。でも、たとえあなたがこの子の体を粉々にしても、この子は平気なのですよ」
「そんなこと・・・・・・やっぱり辛いはずだわ」
「辛いのはガラスではなくて、あなたの心です。あなたが見ているのは、本当は、ものではなく、あなた自身の心なのですよ」

 "サヨナラ おもちゃ箱" - 谷山浩子 [角川]